1: ねこ名無し ★@無断転載は禁止 2017/08/15(火) 08:15:10.70 ID:CAP_USER
 戦後72年にあたる今夏もまた、8月15日に終戦記念日がやってくる。元SEALDs諏訪原健さんはこの日を前に、夏休みの宿題で「戦争」をテーマに作文を書いたことを思い出したという。
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 小学校高学年くらいの頃、夏休みの宿題で「戦争」を題材に作文を書くことにした。予科練だった祖父に戦争体験を聞いて、「戦争」について感じたことをまとめていったのだが、締めの言葉が思いつかない。考えることに疲れた私は、とってつけたように、次のような文を書いて作文を完成させた。

 「たくさんの人々の尊い犠牲の上に、今の平和があることを忘れずに生きていきたい」

 どこかで聞いたことのあるような、ありふれた言葉だった。それでも随分と高尚な作文が書けた気がして、自分としては満足だった。何より夏休みの宿題を終わらせることのほうが重要だった。

 そんなこだわりもなく書いた文章が、長きにわたって、私の思考様式として頭に染み付いていた。「たくさんの人々の尊い犠牲の上に、今の平和がある」というのは、私にとってはごく当たり前のことだった。しかしその考え方は、「戦争」について知ろうとすればするほど、もろくも崩れていくことになる。

 きっかけのひとつは、2016年11月に沖縄・読谷のガマを訪れたことだ。83人もの人が「集団自決」に追い込まれたガマに目を凝らしながら、ここにいた人々に思いを馳せる。それぞれの人にかけがえのない人生があったはずだ。もっと生きたいと強く願いながらの死だったかもしれない。

 考えれば考えるほど、「みなさんの尊い犠牲のおかげで、今の平和があります」なんて言葉で片付けることなど到底できないと思った。

 翌月、中国・南京の大虐殺記念館に足を運んだ。「万人坑」と呼ばれる場所には、殺害された人々の遺骨が無造作に折り重なっている。中にはまだ子どもと思われるものもある。遺骨を見ながら、私は「たくさんの人々の尊い犠牲の上に、今の平和がある」という言葉を思い返していた。彼らも「戦争」によって命を奪われたことに変わりはない。

 しかし自らが「尊い犠牲」という言葉を用いる時、この人たちのことが抜け落ちてしまっていたのではないか。そう考えると、遺骨に目を向けているのがつらくて仕方なかった。

 帰国してからしばらく経って、伊藤智永さんの『忘却された支配』という本を手にとった。この本の中で、伊藤さんは、「戦争犠牲者は戦後の平和と繁栄の礎だった」とする言説を「礎論」と名付けて批判する埼玉大学の一ノ瀬俊也教授の知見を用いながら、次のような言葉を綴っている。

「戦争の死者たちは、自分がこの業苦を受忍すれば、死後の日本は平和に栄えるはずと信じて死んだのか」

「戦後は、尊い犠牲のお陰で築かれたのではなく、無数の不条理な死にもかかわらず、別の国の新たな戦争景気で潤い、図らずとも幸せを享受してしまった。『礎論』は、生き残った者たちがやましさを取り繕い、因果をすり替えて唱和しているのではないか」

 私はこの文章を読んで、頭をガツンと殴られたような気がした。私自身は「やましさ」があって、「たくさんの人々の尊い犠牲の上に、今の平和がある」と考えていたわけではない。しかし戦争で命を失った人々を「尊い犠牲」としてまつり上げていたことに変わりはない。

 しかもそこでは、無意識のうちに「日本人」ばかりに目が向いていた。そのことを改めて突きつけられた気がして、これまでの自分を恥じずにはいられなかった。

 伊藤さんの言葉を引き受けながら、自分なりに考えたことがある。それは、「たくさんの人々の尊い犠牲の上に、今の平和がある」という思考は、過去の「戦争」という出来事を見えにくくするだけでなく、現在を生きる私たちと「戦争」とのつながりを見えにくくしてしまうのではないかということだ。

 戦争による「傷」に苦しめられている人は、今日に至っても多くいる。「戦争」が敗戦とともに終わりを迎えたわけではない。目には見えない形で「戦争」は続いている。

 原爆や在日米軍基地、在日コリアンへの差別などの問題を思い浮かべれば、そのことは容易に理解できるはずだ。

https://dot.asahi.com/dot/2017081400008.html

>>2以降に続く)