1: 蚯蚓φ ★@無断転載は禁止 2017/06/16(金) 20:29:06.93 ID:CAP_USER
一般的に中国では「樹木盆景」の起源を唐初期と見る。その後、宋の時、高麗に入ってきて「盆栽(ブンチェ)」という名前を得て、また日本に渡って「ぼんさい」になった。
ダウンロード盆景

現在の中国には都市のあちこちに盆景公園があり、政府の積極的支援で技術開発と共に多くの盆景を生産して世界各地に輸出を増やしている状態だ。日本もまた、盆栽村を作って国風展という名前で展示会を開き、世界盆栽連盟を結成するなど盆栽の普及・発展に心血を注いでいる。これに比べて我が国の盆栽は規模や技術面で中国や日本とは比べものにならないようだ。

深夜、家の中で静かに盆景をを見ていると、自分もあたかも自然の一部になったような錯覚に陥ることもある。余裕を失った現代人が限定された空間の中だけでも悠悠自適に過ごして友とするには申し分ないわけだ。
「人間精神の審美的活動を土台に自然景観を表現したもの」と言った盆景愛好家の言葉のように、表面だけを言えば盆景は明らかに芸術的造形物に違いない。しかし、切って捻って針金でぐるぐる巻きにする作業には残忍さまで感じられる。自然に対するすべての過程が真に非自然的だ。

そのためか、盆景からは自然が奏でる激しい変化の中にも終始一貫した「平和と自由の交響楽」が聞こえない。人間の貪欲の中に他の生物を引き込んで如何におしゃれしてもその全てが束の間の幻想にすぎない。
盆景が韓国でも中国でもなく唯一、日本で「盆栽」として花開いた理由は、彼らの国民性がその土台にあると思う。これは人為と模倣で物事を縮小し、自分の手中に作らなければ気がすまない特別な指向が自然に対する態度にもそのまま現れる、という意味だ。

その点で、盆景の話を庭園に移してみれば日本人の閉じられた自然観がより一層明確になる。「客を迎える落葉の散った茶室の前庭をすっきりするように掃いた後、木を揺さぶって落葉を落とした」という日本の故事がある。

 ありのまま見ることができず、整えなければならない日本人の自然観はこの故事に基づく。どれほど人為的で閉鎖的なのか。一言で言えば、日本の庭園は自然を切り取って人間の望みの中に象徴的に配置した「虚構の庭園」だ。

これに比べて私たちの庭園は自然と人間の調和を基礎にする。流れる水のように自然に、地形と地物をそのまま生かして、花を植えて良ければ花を植え、木を植えて良ければ木を植え、池一つを掘っても水生植物一つを植えても自然美人に対するようにし、日本のように刃物で過度に整形手術をしていない。従って私たちの庭園は自然と人間の生が一つになる「共存の庭園」と言える。

日本最高の庭園がある足立美術館と朝鮮最高の園林である瀟灑園(ソセウォン)に行ってみればこれ以上説明は要らない。今日も日本人たちは自然を縮小して自分のものとするために熱心に盆栽を整えて庭園を育てるのに忙しい。

たとえ偽物の宝石の指輪でも指にはめれば、さらにきれいに見えるという「錯覚の美学」により「残忍な貪欲」が文化の服を着たのではないだろうか?とにかく、日本人の閉じられた自然観の中にある自然は循環する自然ではなく全季節咲いていても香りがしない単なる造花にすぎない。

イ・ヒョヌ(詩人)
http://www.knnews.co.kr/edb/nimages/2017/06/20170616.01010126000002.01L.jpg

ソース:慶南新聞(韓国語) 日本人の「閉じられた自然観」-イ・ヒョヌ(詩人)
http://www.knnews.co.kr/news/articleView.php?idxno=1217856
 
前スレ:http://mint.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1497593637/
★1の立った時間:2017/06/16(金) 15:13:57.51